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知れば知るほどもっと海が大切になる。

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目を閉じて、想像してみよう。食べものがどこからやってきたのか

青江覚峰

料理僧
Kakuho Aoe

第6回のゲストは、〝仏教×料理〟をテーマに興味深い活動を続ける料理僧・青江覚峰(あおえかくほう)さんです。NYのテロをきっかけに仏門に入り、「暗闇ごはん」などのユニークな活動を通して、現代を生きる私たちに分かりやすく仏教の教えを説いていらっしゃいます。今回は「食べる」という行為の奥深さについてお話を伺いました。

プロフィール

1977年東京生まれ。浄土真宗東本願寺派湯島山緑泉寺住職。米国カリフォルニア州立大学にてMBA取得。料理僧として料理、食育に取り組む。ブラインドレストラン「暗闇ごはん」代表。超宗派の僧侶によるウェブサイト「彼岸寺」創設メンバー。ユニット「料理僧三人衆」の一人として、講演会「ダライ・ラマ法王と若手宗教者100人の対話」などで料理をふるまう。著書に『お寺ごはん』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『ほとけごはん』(中公新書ラクレ)、『お寺のおいしい精進ごはん』(宝島社)など。

CONTENTS

・9.11アメリカ同時多発テロを契機に見出した「料理僧」の道
・食事と自分が一対一で向き合う「暗闇ごはん」
・お坊さんが唱える、いただきますの意味
・想像する力と遊びの部分を大事に

9.11アメリカ同時多発テロを契機に見出した「料理僧」の道

編集部 「料理僧」という肩書は初めて拝見しました。「料理僧」とはどんな活動をされるのでしょうか?
青江さん(以下敬称略) そもそも、私がなぜお坊さんなのか、ということから説明しますと、お寺に生まれたからです。ただ、はしかみたいなもので、実家が家業をやっている人は〝継ぎたくない病〟にかかる人が多いようで、私もその一人でした(笑)。お寺を継がないためにはどうしたらいいか、をひたすら考えていましたね。 そこで出した答えが「日本にいなければいい」というもの。アメリカの西海岸にある大学に留学しまして、MBAを取得。向こうで就職活動をしていたんですが、大手企業からも内定をいただいたり、〝イケイケ〟な時代だったんです。時は2001年。そんな時にアメリカ同時多発テロ事件が起きました。
編集部 アメリカで9.11を体験されたんですね。
青江 多くの人がそうだったように、私も社会に対して何ができるだろう、何かしなければと考えを巡らせました。テレビを見れば、消防士の人は命をかけて救助活動に行き、お医者さんや看護師さんまでも現場で人を助けている。自分も……と思いつつ、でも、できることは献血とお金の寄付の2つくらいしかなかった。この事実に愕然としたんです。MBAを取得し、イケていたと思っていた自分は、実は社会に対してまったく何にもできない存在なんだ、と。 献血しても募金をしても、わずかな量や金額にしかならない。自分の限界がすぐそこにあることに気づかされたのと同時に、社会の生きづらさを感じてしまったんです。世の中や自分自身の何もかもが嫌になってしまったんです。
編集部 青江さんにそんな時期があったんですね…。
青江 自分自身を見つめ直すことになるのですが、MBAはもちろん、英語をはじめとした学力や知識など、〝後付け〟してきたモノをすべて捨て去ったあとには何が残るのかを考えたときに、それは「日本人であること」だと気付いたんです。 そこでさらに「日本人ってなんだろう」って考えたときに、自分自身が食わず嫌いしてきた、仏教や神道をはじめ、日本の伝統的な宗教や文化に何かあるんじゃないか、と考え至り、日本へ戻って仏教を学ぶことにしたんです。
編集部 仏教を学びはじめて、どうでしたか?
青江 築地本願寺の中にある東京仏教学院で学んだのですが、そこで勉強を始めたらすごく面白くって。そうそう、お経って何が書いてあると思いますか?  簡単に言いますと、お釈迦さまをはじめとしたいろんな人たちの物語です。その中に、後に「大乗仏教」を創始する「龍樹」という高僧の話があって、私はそれがすごくおもしろいと感じた。偉いお坊さんですから、いい話が書いてあると思うじゃないですか! ところが真逆で、罪を犯したり、失敗を延々と繰り返して、おしまいなんです(笑)。
編集部 オチもないんですね(笑)。
青江 そう、オチもない。そのときに思ったが、仏教って問いはあるけど答えはないんだって。もっといえば、人間って2000年間、何も進歩してないし、出てくる想像力もそんなに変わらないんだって。それくらい変わらないことをずっと繰り返しているのが人間なのであれば、僕の悩みなんて大したことないなって。言葉を変えたら、僕の悩みなんて誰かが通った道だろうって思ったら、急に生きづらくなくなったんです。
編集部 ここから青江さんの仏教界での活躍が始まるのですね。
青江 本当に仏教に救われたんです。仏教の考え方は、現代人にとっても非常におもしろい。でも、そのおもしろさが伝わってないって思ったんです。つまり、今の仏教ってPRが下手だよねって(笑)。そこで、どうしたらいいかを修行仲間と考えるうちに、始めたのがお坊さんによるブログみたいなもの。2003年くらいでしたね。
編集部 お坊さんブログ、早いですね!
青江 『彼岸寺』というウェブサイトです。仏教を軸に、メンバーのお坊さんたちがそれぞれ得意なジャンルを掛け合わせて発信していこうというもの。「仏教×IT」とか、「仏教×妖怪」とか。そのときに、人前で言える唯一の趣味であった料理をテーマにするのはどうかと考えました。 食事って、人間誰しもが一日に複数回行う能動的な行為。食べなかったら生きていけない。つまり「食べる」「飲む」は人間の根源的なものだと気付き、「仏教×料理」には何かありそうだなと思い、自らを「料理僧」と名乗っていろんな活動を始めました。

食事と自分が一対一で向き合う「暗闇ごはん」

編集部 青江さんの活動のひとつ、「暗闇ごはん」について教えてください。
青江 人間が生まれて最初に行うことは「息を吸う」こと。次にするのが「母乳を飲む」こと。つまり食事です。人間の最期を考えても、食べられなくなり、息を吐いて終わる。人間が2番目にはじめて、最後から2番目まで行っている行為が食事なのです。であれば、この食事というものを我々は大切していかないといけない。そう考えていくときに、これは仏教的にもつながっているな、と。 呼吸というものに意識を向けるのが「座禅」です。誰しもが無意識に行っていることに意識を向けることで、自分がどういう状態にあるかがわかる。同じことが食事でもできないか。現代人って忙しいので、何かきっかけがないと食事ときちんと向き合うことができない。そこまで考えたときに、視覚を奪った状態で食事をとる体験「暗闇ごはん」の発想に行き着いたんです。
編集部 暗闇で料理を食べるというのは、どんな感覚なんですか?
青江 まず、何を食べさせられているかわからないという恐怖感。だから、みんな触ってみたり、匂いを嗅いでみたり、口に含んで探ってみたりする。食べる段階になっても、よく咀嚼し、味わい、それでようやくのみ込む。
提供 / 青江覚峰さん
編集部 食べるときに、普段はそこまでしませんね。
青江 食べるときって視覚情報があるので、そこからどんな料理か、味はどんなものかを想像することができ、食べるという行為は確認作業に近くなる。でも、暗闇だと全く逆で、食感、香り、味などを頼りに、どんなものか想像することになるんです。これって、実は小さいころには当たり前にやっていたこと。初めての食べものを食べるとき、ピーマンでもなんでもまず先入観なく食べますよね。で、そこで、違和感のあるものは「苦い」とか「好きじゃない」と認知して記憶する。2回目からは、視覚から過去の記憶を思い出して「嫌い」となる。この1回目の出会いは、大人になると、よっぽど珍しいものに出会わない限り体験しなくなります。それを「暗闇ごはん」では、もう一度経験しなおすことができるんです。
編集部 食べものに対して、新鮮さを持って感じることができるんですね。
青江 そこで初めて、食事と自分が一対一で向き合うことができる。じっくりと味わって感じたことから、背景にある事柄を想像し、日々に生かしていきましょうというのが「暗闇ごはん」です。
提供 / 青江覚峰さん
編集部 感覚もリセットされ、食事に対する感謝の気持ちも醸成されそうです。
青江 その通りです。さらにおもしろいのは、味はほとんど一緒だけど、見た目が違うものを出したとき。例えば栗とサツマイモを、それぞれ栗羊羹、芋羊羹にして提供すると、誰か声の大きい人が自信満々に「この栗おいしいね!」って言うと、みんな栗だと思ってしまう。でも、こういうことって世の中に結構あって。
編集部 扇動される、ということですね。
青江 人の意見を参考にするのは悪いことではありません。でも、気をつけないと、多くの犠牲が出たりすることになる。「暗闇ごはん」というものは、結局自分と向き合うこと。その先には社会や世の中との関係性がある。そういうところまで感じていただきたいなって。
編集部 「暗闇ごはん」、深いです。

お坊さんが唱える、いただきますの意味

青江 私は食べることをテーマに活動していますが、ここでちょっと質問をします。日本人が食前に使う言葉である「いただきます」ですが、これはいつから使われるようなったでしょうか? 4択です。 1 江戸時代以前 2 江戸時代 3 明治・大正時代 4 昭和
編集部 日本中で広く使われている言葉。「3 明治・大正時代」あたりでしょうか…。
青江 正解は「4 昭和」です。 しかも戦後、昭和26年。これはちょうど学校給食がはじまったタイミングなんですね。 では、「いただきます」の前に使われていた食前の言葉はあったのかというと、ちゃんとあるんですよ。 それがこの「四分律行事鈔」というもので、仏僧が食事の前に唱える文言です。 一、計功多少量彼来処 二、忖己徳行全缺多減 三、防心顕過不過三毒 四、正事良薬取済形苦 五、為成道業世報非意
編集部 どのようなことが書いてあるんですか?
青江 現代語に意訳しますと、このようになります。 一、目の前の食べ物が一体どこからやってきたのかを想像してみよう 二、目の前の食べ物を食べる資格が自分にあるのかどうかをよく考えよう 三、「もっともっと」という心を離れて慎ましく食べていこう 四、食べ物が自分の体の一部になっていることを感じよう 五、生きるためにいただきます この5つを自問してから、食事をするのがお寺の食前の作法なんですね。すごく大切だなあと思うことが詰まっていて、食べることの意味やさらにもっと深いことまで教えてくれる気がします。 たとえば1つ目の「目の前の食べものが一体どこからやってきたのかを想像してみよう」。これにならって食べものについて徹底的に想像すると、さまざまなことを気づかせてくれます。
編集部 もう少し詳しくおしえてください。
青江 目の前にイギリスのビールがあるとします。これがどこからやってきたかを考えた時に、当たり前ですが麦は畑でつくられ、それはイギリスにあって、その麦が育つには土や太陽、雨など自然の力がないと育たない。ビールにするには発酵が必要で、そのためには、人間の今までの歴史や知恵、労働もなくてはならない。 日本に届くには流通が不可欠。おそらく船で運ばれてくる。そこにはオイルが必要で、そのオイルは中東で産出されたものかもしれない。アルミ缶はどうか。オーストラリアか南米あたりで採掘されたアルミニウムが精製され、これもまた海を渡る…。
編集部 海に囲まれた国に住んでいることを実感しますね。

想像する力と遊びの部分を大事に

青江 はい。目の前の一杯のビールを考えただけでも、必ず今の世の中は世界とつながってかいるし、「海」を経由して関係している。魚が獲れる場所としての「海」だけではないですね。そう考えた時に、我々は目の前のひとつの食事を見たときに、すごく短絡的に食べたり、飲んだりしていないか。 目の前の食べものの背景に思いを巡らせると、いろんなものが思い浮かんでくるはず。そこにひとつひとつ、「いただきます」「ありがとう」という感謝の気持ちが生まれれば、食べものをおろそかにはしないと思うんです。
編集部 想像することの大切さを感じます。海に囲まれた島国である日本で、海とつながっていない人なんていないですよね。
青江 想像するってことが、私は何よりも大切だと思っています。「暗闇ごはん」もそうですが、現代では当たり前にいろいろなものを享受できるがゆえに、想像力がどんどん欠如してしまう。これが怖いと思うんです。ちょっと立ち止まって考えれば、「食」の大切さはだれでも知っているはずなんです。
編集部 きっかけさえあれば、人は想像力によって見える世界が変わりますし、価値観が変わると行動にも変化が生まれると思います。ちなみに、手軽に取り組める食べものに関係するアクションはありますか。
青江 仏教において料理には、「大心、老心、喜心」の三心が大事だとされています。「大心」は、何があっても変わることのない態度や振る舞いのこと。「喜心」は一期一会のチャンスを与えられた喜びとともに料理をすること。そして「老心」なのですが、これがいわゆるフードロスの解消につながる考えかたです。文字どおり、老いた心。親心と言いましょうか、食材ひとつひとつが、自分の子供であり、友達であると思って大切に料理することを意味します。 僕はいつも料理をするときに、普通なら捨ててしまうような皮などをいきなり捨てないで、バットの上に置く。そうすると、彩りが足りないから飾りに使ったりすることもある。どうしようもないものは、コンポストに入れて肥料にします。その気持ちで料理をすれば、自然と無駄を出さないし、最後まで使い切るようになりますよね。
三人のお子さんのお弁当作りは青江さんの担当
編集部 いきなり捨てないことで、ちょっと考える時間ができ、利活用の可能性が生まれるんですね。
青江 その通りです。そうやって、捨てる前に一度考えるのがすごく大事。この作業があることで、結果としてゴミになるかもしれないけど、考えるバッファーになる。日本語で言うと「遊び」。クルマでも、ハンドルやブレーキって、これだけ技術が進んでいっても、クルマの動作に関係のない〝遊び〟がある。 なぜあるのか?それがないと危ないからなんです。今の社会ってすごく整理・細分化され、機能的にはなっているけれど、一方で余裕がなくなっている。 すると、どうなるか?未知の問題が起きたときに、余裕がなさすぎて誰も判断がつかなくなってしまうんです。社会には「遊び」の部分がどうしても必要だと思います。そして私たちお坊さんって、ある意味、社会の遊びみたいなもの。何をやっているかわかんない、けれどなんとなく必要そうでしょ(笑)。だから、いろいろなところに顔を出して、活動するようにしています。
編集部 なるほど。「遊び」の大切さについては、コロナ禍が続く生活の中で痛感していることです。「暗闇ごはん」のリアル開催はお休みされているそうですが、青江さんの講演や料理教室は、オンラインによってたくさん企画されています。青江さんの遊び心溢れるトークに触れると、皆さんの心も軽くなること間違いなしです。 「暗闇ごはん」によって自分の感性をリセットしてみたいところですが、その体験はもう少し後とっておくとして、まずは食事の前にそっと目を閉じて、この食べ物がどこからやって来たのか、想像することから始めたいと思います。青江さん、ありがとうございました。

  インタビュー/児浦 美和  Photo & Text/Yuki Inui

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