海の食文化体系
2026

魚を「守る」と言う前に、
私たちはどれだけ魚のことを
知っているのだろう?
-海と食文化を巡る、15の現場の声

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魚をめぐる価値の構造

美味しい魚はどこで、誰が決めるのだろう?

生産地では日々、多くの漁船が水産物を積載して港に着岸する。そこから、市場と仲卸を経て小売店に魚は並び、消費者の食卓にのぼるが、それが美味しい魚であると判断される基準はどこにあり、どの段階で決められているのだろう?合理的であるがゆえに、日本の水産物流は、同時に美味しさの起点が曖昧になっている。

CONTENTS

  • 私たちが美味しさを決めるのか、市場が決めるのか

  • 世界に類を見ない発達を遂げた日本の水産物流
  • 観光地化した市場が映し出す、価格の歪み

私たちが美味しさを決めるのか、市場が決めるのか

魚の味は、どこで決まっているのだろうか。こう聞かれたら、多くの人は「地域」、「漁港」、「漁師」を思い浮かべるかもしれない。プランクトンが豊富で海流に恵まれた漁場で獲れた新鮮な魚介類であれば、美味しい。これはひとつの真実だ。

だが、魚が私たちの口に入るまでには、いくつもの現場と判断を経ている。浜(生産地)、市場、仲卸、小売。その流れをたどると、「美味しさ」は一か所で決まるものではないことが見えてくる。

浜で行われるのは、「獲る」という判断だ。どの漁場で何の魚を狙い、いつ、どの漁法で獲るのか。これらは、国内では地元漁師たちによる天候や海況、資源状況といった条件に大きく左右される。

続く市場は「評価する場所」だ。水揚げされた魚は、産地の卸売市場、豊洲に代表される消費地卸売市場に集荷され、競りや相対取引を通じて価格がつく。旬、産地、漁法、漁獲後の取り扱い、鮮度、サイズ、脂のり、需要を総合した公正な評価により、その日の価格が決まる。

全国の中央卸売市場は、農林水産省が認定・監督し、地方公共団体が開設している。
40都市・64市場あり、うち水産物市場は30都市・35市場(2018年10月時点/農林水産省)

そんな卸売市場は、昭和時代には魚と情報の集積地だった。働く人々は魚の良し悪しを見極める目と経験があり、「今日はこの魚がいい」、「この魚は値が出る」といった判断が、現場で即座にくだされていた。

市場から先で重要な役割を担うのが、仲卸だ。魚を右から左へ流す存在ではなく、どの店に、どの魚を、どの状態で届けるか。たとえば、同じ魚でも、刺身向きなのか、焼き物向きなのか、どの程度の鮮度が求められるのか。その判断は、売り先の好みを知っている仲卸だからこそできる商売であった。消費者と魚をつなぐ調整役が仲卸であり、同じ魚に“役割”を与えている存在でもある。

大阪・鶴橋卸売市場。戦後の闇市から発展した迷路のように入り組んだ道、
長いアーケード商店街やコリアンタウンと隣接していることから大規模な市場のひとつだ

昭和の食卓では、この「任せる関係」が機能していた。魚屋や飲食店は、細かい指定をしなくても、「いつもの感じで」と任せることができ、判断は現場に委ねられていたのだ。

令和の食卓では、小売の役割が大きく変わった影響が顕著に現れている。スーパーマーケットでは、価格の安定性と欠品の少なさが重視されるため、魚は「売れる商品を優先」して並べられ、扱いやすさも考慮される。結果として、店頭に並ぶ魚種は絞られ、調理済みや加工済みの商品が年々増えていった。味や価格の判断は、現場の裁量よりも、マニュアルやデータに委ねられるようになったのである。

誰が判断しているのか。それは、浜なのか、漁師なのか、市場なのか、仲卸なのか、それとも小売なのか。その境界は、以前よりも見えにくくなっている。

世界に類を見ない発達を遂げた日本の水産物流

日本の水産物流は多くの業者が携わり複雑だが、温度管理に厳格なルールがあり、
それが守られているため、刺身でも食べられる鮮魚が消費者に安全に届けられる。

図表に示されているように、日本の水産物流通は非常に複雑だ。生産者から消費者までの間に多くのプレイヤーが関わり、それぞれが役割を担っていることで、「大量の水産物」を「鮮度を保ったまま届ける」。世界的にも高く評価されてきた。

まず、生産者から消費者に届くまでの中間各業者が温度を適温に保ち管理していることで、多くの魚介類が生食可能な鮮度で流通する。天然魚はサイズ・品質がまちまちだが、卸売市場が「集荷」、仲卸や売買参加者が「分荷」することで、需要と供給のバランスが取られる。卸売市場では「欲しい魚を選んで買う」ことができるため、「欲しがられる場所」に適正価格で販売されるからだ。

だが、この水産物流は優れたシステムと同時に、消費者からは仕組みがほとんど見えないのが実情である。たとえば、豊洲市場内部に競りのために並べられたマグロをニュースで見ても、産地から集荷をされた段階であること、食卓にのぼるまでは仲卸や売買参加者を経ることは意識されにくい。

多くの人にとって、いまの時代に魚を買う場所はスーパーマーケットであり、そこがすべての起点のように感じられるからだ。浜や市場での判断は、日常の意識から遠ざかっている。

スーパーマーケットで売られる鮮魚のほとんどはパックに詰められ、この光景は当たり前になった。
一方、鮮魚に特徴を出すスーパーマーケットでは、豊富な魚種の丸魚を並べ、調理サービスも行う

昭和の時代、魚の美味しさは「現場の判断」に支えられていたといえる。誰がどこで決めているのかは、なんとなくの知識で共有されていたはずだからだ。令和では、その判断が分散し、見えにくくなった。効率化と安定供給により、判断はシステムや契約に委ねられたことで合理的であるがゆえに、「どこで味が決まっているのか」を曖昧にしている。

観光地化した市場が映し出す、価格の歪み

日本の「食」を象徴する観光地として、多くのインバウンド客で賑わう場所として挙げられるのは、東京の築地場外市場や京都の錦市場だろう。串に刺さったウナギの蒲焼やホタテの照焼き、ウニやイクラをのせた生牡蠣、カニカマの天ぷら、その場で食べられるよう盛られた刺身などが店先に並び、都市部にいながら港町っぽさを楽しめる観光客向けの食べ歩きスポットとしての顔を強めている。

こうした観光地化がもたらすのは価格の歪みである。豊洲市場・千客万来オープン時に話題となった外国人旅行者向けの高級海鮮丼である、通称・インバウン丼は、1杯5000円~2万円弱という高額帯だ。串ものは500円~1000円ほどで手軽だが、市場関係者であれば、卸値と売価の差に気づくこともある。

市場で形成される価格は、本来、魚の質や需給を反映したものだ。一方、観光地では「体験価値」や「非日常性」が価格に上乗せされる。その結果、同じ魚であっても、流通の文脈とは異なる論理で値段が決まっていく。

この変化自体が悪いわけではない。すでに日本人は魚を食べることが“イベント化”しているからだ。週末に家族連れで賑わう回転寿司チェーン店、漁港直営の飲食店や海に近い道の駅などの地魚山盛りの海鮮丼などは、多少高価でも食体験であり、グルメ旅の目的にもなる。

観光地化した場外市場は、その場で食べ切れるよう少量盛りや食べ歩きしやすいよう工夫をこらして販売。
インバウンド客はもちろん、日本人も観光客として訪れる

だが、卸値と売価の差が拡大し、イベント化することで「魚の価値がどこで、何によって決まっているのか」は、ますます見えにくくなる。誰のための価格なのか、どの判断が優先されているのか。

そして、魚を「守る」という言葉が指すもの。何を意味しているのだろう。資源を守ることなのか。漁師を守ることなのか。価格を守ることなのか。それとも、食文化を守ることなのか。

「守る」という言葉は、立つ現場によって指すものが違う。どこかひとつだけを切り取っても、全体は見えてこない。どの現場で、どの判断を指しているのだろうか。この問いを共有することから、関係の形は変わっていくのかもしれない。