海の食文化体系
2026

魚を「守る」と言う前に、
私たちはどれだけ魚のことを
知っているのだろう?
-海と食文化を巡る、15の現場の声

share

魚をめぐる価値の構造

私たちは本当に魚を食べなくなったのか?

築地場外市場は、年末には観光客の来場を控えてもらうアナウンスをするほど人が集まる一大観光地で、新春恒例のマグロの初競りの落札価格の数字は正月明けの風物詩。秋になればサンマの価格も報じられるが、それでも日本人は魚を食べなくなったと言われて久しい。私たちは、何を見て魚を語っているのだろうか?

CONTENTS

  • 魚の消費量だけで現状を語っていいのか

  • 昭和の食卓にあったもの・令和の食卓で起きていること
  • 魚を選べていたのか、選ばされていたのか

魚の消費量だけで現状を語っていいのか

「日本人は魚を食べなくなった」。この言葉は、いまや説明なしでも通じるほど定着している。その根拠として、必ずといっていいほど示されるのが、肉類と魚介類の消費量の逆転だ。

国民ひとりあたりの年間食用魚介類消費量は、2001年度に40.2kgのピークを迎えたが、わずか10年後の2011年には肉類が上回った。以降、その差は広がるばかりで、肉類は令和3年には34.0kg、魚介類は23.2kgとなり、「魚離れ」と「肉食化」はセットで繰り返し使われてきた。

冷蔵技術や物流技術の発達により、塩蔵や干物ではなく鮮魚も全国で容易に食べられるようになった。しかし、2006年ごろには魚介類と肉類が拮抗し始めている

数字だけを見れば、たしかに魚介類の消費量は減っている。だが、その事実だけで、「私たちは魚を食べなくなった」と言い切ってしまっていいのだろうか。「魚離れ」という言葉が広がった背景には、消費量の変化だけでなく、食生活全体の構造的な変化があるからだ。

高度経済成長期以降、家庭で調理にかけられる時間は減り、共働き世帯の増加とともに、手軽さや時短が重視されるようになった。肉は精肉店であろうがスーパーであろうが、日本はたいてい料理目的別にスライスされているため、パッケージを取り除けばすぐに調理ができ、バラエティに富んだ市販の調味料で味つけも容易だ。一方、魚は「骨がある」「臭いが出る」、「複数の調味料を自分で配合するのが難しい」といったイメージを持たれやすくなった。

こうした変化により、魚は少しずつ食卓の主役から「扱いにくい食材」へと位置づけられていく。そんななかでも「魚離れ」という言葉が強く使われるようになったのは、魚が単なる食材以上の存在だったからではないだろうか?魚は、日本の食文化そのものと結びついて語られてきた。だからこそ、消費量の低下は「文化の後退」と結びつけて語られやすかった側面は否めない。

昭和の食卓にあったもの・令和の食卓で起きていること

では、かつての食卓では、魚はどのような存在だったのだろうか。

昭和30年代は一汁三菜が主流で、魚は塩鮭、干物、イワシの丸干しなどが並び、野菜の煮物や漬物の小鉢が添えられていた。冷蔵庫の普及が50%を超えるのは、昭和40年に入るころ(1960年代中ごろ)のため、食卓に上がる魚は塩蔵・干すなどの加工品が中心だった。

昭和の食卓でよく見られた、一汁三菜。魚は塩鮭、アジの干物、サバの味噌煮など、ごはんのおかずになるよう塩気が強いものが多かった

マクドナルドの日本上陸やファミリーレストランの開業が続いた日本の食卓の洋食化黎明期である昭和50年代に入っても、多くの家庭では魚は「献立を考える対象」であると同時に、「今日の主菜」でもあった。朝は焼き魚、夜は煮魚。一尾まるごとの丸魚や半身を買い、家庭で下処理をして調理するこは、さほど特別な行為ではなかった。夕方になると、台所のまな板で魚の内臓を取り、うろこを落とし、切り身にする。その一連の作業は日常の延長だった。

そして、魚は「まとめ買い」ではなく、「今日食べる分」をその都度買うもの。普及したとはいえ家庭の冷蔵庫はいまほど大きくなく、産地からの流通インフラや冷凍技術も現在ほどではないため、保存できる量にも限りがあったからだ。それゆえ、鮮魚店の店先には、その日水揚げされた魚が並び、値段も天候や漁の具合で変わる。

「今日はサンマがたくさん入ったよ」
「このアジは脂がのってる」

こうした鮮魚店の店先に立つ“プロ”の一言を頼りに、献立が決まる。レシピを検索する必要はなく、調理法は自然と頭に入っていた。単なる販売の場ではなく、鮮魚店の店員と客のやり取りの中で魚の選び方や食べ方が伝えられていた。

街の鮮魚専門店は、1976年には約6万店あったが、2021年には全国で1万店を切った。しかし、商業施設に入る鮮魚専門店は「魚を買う目的」の客で賑わい、産地の鮮魚店は地魚を武器に食堂を併設し観光客を呼び込んでいる

そして、旬や地域は、選択肢というより前提だった。私たちが選ばなくても、季節に合った魚が並び、地域で獲れる魚が食卓に上がる。魚を食べることは、意識せずとも、季節と場所を受け取ることでもあった。

自然と「いまの時期はこの魚が美味い」や「この魚は地元でよく獲れる」という知識も、誰かが改めて教えるものではなく、日々の暮らしのなかで共有されていた。

家庭の朝食がパン中心になり、夕食の主菜に肉類が増えてくるのは、昭和50年代半ば。
少なくとも、昭和50年代前半までは魚は日常的な主菜で、それにより、旬、地域、鮮魚店は「意識して選ぶもの」というより、当たり前の前提だった。

一方、令和の食卓では状況が大きく変わっている。スーパーの鮮魚売り場では切り身に加工され、刺身はパックに詰められ売り場に並び、調理の手間は大きく減った。フライパンで焼くだけ、レンジで温めるだけで食べられるレトルトパウチの種類も増え、煮魚やフライなど惣菜も気軽に買えるようになった。

1年を通して、安定した品質の商品が手に入る。産地や旬を詳しく知らなくても、“店頭に並べられた魚”を買うだけで、完結する。魚介類を食べることが便利になったことは、間違いない。だが、魚と季節や地域を結びつける情報は、食卓から少しずつ姿を消していった。

魚は「選ぶもの」から「並んでいるもの」へと変わっていく。その変化は、消費量の減少以上に、私たちの魚との関係を大きく変えてきたのではないか。

魚を選べていたのか、選ばされていたのか

ここで、もうひとつ立ち止まって考えたい。昭和の食卓では、魚は本当に「選ばれていた」のだろうか。それとも、選択肢が限られていただけだったのだろうか。

冷蔵技術や流通が現在ほど発達していなかった時代だけに、食べられる魚は季節や地域に大きく左右されていた。選択肢が少ないからこそ、結果として旬や地魚を食べていただけ、ともいえる。

令和の食卓では、選択肢は一見増えている。だが実際には、「失敗しにくいもの」と「分かりやすい魚種」に選択が集中しやすい構造がある。

生き残る街の鮮魚専門店は、刺身や調理済商品を並べるなどして工夫をこらす。都市部で商店街が残っているエリアでは、馴染みの常連客や昭和レトロを求めるZ世代が訪れるなども

旬や地域を知ることが前提でなくなったとき、魚は「知って選ぶ食材」から、「条件の揃った商品」へと変わった。その変化を、私たちはどこまで自覚してきただろうか。

魚介類の消費量が減ったことは、統計上の事実だ。だが、その背景には、消費者の食べ方・選び方・知り方の変化が重なっている。

「魚を食べなくなった」という言葉の背景には、食べ方、選び方、知り方の変化が重なっている。魚がどこで、どのように「食べ物」になっているのか。消費量そのものではなく、その過程を見直すことで、違った風景が見えるはずだ。

食べる量が減ったのか、それとも知る機会が減ったのか。この問いを手がかりに、次章では、魚が海から食卓に届くまでの道のりをたどっていく。