海の食文化体系
2026

魚を「守る」と言う前に、
私たちはどれだけ魚のことを
知っているのだろう?
-海と食文化を巡る、15の現場の声

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魚はどのように食べ物になっているのか

浜で100点の魚を、100点のまま料理人へ〈前編〉

現場の声

藤本 純一

漁師
独自の挑戦を続け、『ゴ・エ・ミヨ 2021』日本版で『テロワール賞』を受賞

浜で100点の魚を、100点のまま料理人へ〈前編〉

魚の美味しさは、どこで決まるのだろうか。 海から揚がった瞬間がもっとも良い状態にあるとすれば、その価値はどのように保たれ、どこで失われていくのか。 流通の過程で避けられない変化と、それに抗う現場の工夫。 その積み重ねから、魚の「美味しさ」の輪郭をたどる。

CONTENTS

  • 浜のままの鮮度の魚を全国の料理人のもとへ

  • 魚を獲りすぎた漁師が気づいた、海の変化
  • 自ら動いて会った人々との交流が魚の価値を変えた

浜のままの鮮度の魚を全国の料理人のもとへ

瀬戸内海は、全国屈指の好漁場だ。700以上の島々やリアス式海岸がつくる複雑な地形による潮流が生まれ、河川から豊富な栄養が流れ込む。全体的に浅く藻類が発生しやすいことから、400種以上の多様な魚介類が生息する。その瀬戸内海でも潮流の激しい、村上海賊の拠点として知られる能島のすぐ隣の大島が藤本さんの主戦場だ。

「浜では100点なんですよ。だけど、輸送することによって大体80点とか70点とか、魚の美味しさが失われてお店に届いていると感じちゃって」

白波が立つほどの潮流の激しさが藤本さんの漁場エリア。この荒波にもまれた魚は、身が引き締まっている。天然マダイが名産品

海から揚がった瞬間の魚は、もっとも良い状態にある。しかし、産地から離れた消費地で浜のままの美味しさを味わうのは、保冷技術、流通技術が発展した現在でも難しい。鮮魚は、流通の過程で鮮度と味が少しずつ落ちていくのは宿命だ。

「いかにこう、僕の手元にある状態のまま料理の人に届けるか」

こう考えた藤本さんが、宿命に抗う手技として取り入れているのが神経〆である。寄港し、専用のピックとワイヤーを魚の頭に突き刺し、脳と脊髄(神経)を破壊することで、死後硬直を遅らせて鮮度と旨味を長期保存させる処理だ。藤本さんの魚は、10日は生食ができると言われている。ところが、この処理は決して特別ではないという。

「神経〆って“魚を美味しくする魔法”みたいに言われることがあるんですけど、違うんですよ。テレビなんかで魚がピチピチ暴れてるのを、『新鮮で美味しそう』って言うでしょ。でもあれ、魚にとっては一番よくない状態。暴れて疲れて、筋肉のなかに疲労物質が溜まってますよね。なのに、そのまま氷水に入れられて凍死しているだけ。酸味と雑味があって、臭いの際どい状態。それが市場に出ている魚のほとんどなんですよ」

暴れた魚はストレスを感じ疲労し、身の状態も悪くなる。

それに気づいた藤本さんは、あることをキッカケに神経〆にたどり着いた。魚を獲るだけではない漁師、つまり魚の“死に方”まで設計をするようになったのだ。しかし、漁師になった最初からではなかった。

船上で水揚げしたばかりのタイに神経〆をする藤本さん

魚を獲りすぎた漁師が気づいた、海の変化

藤本さんは、漁師の家の4代目である。物心がついた2~3歳には祖父の船に乗っていた。

「僕を漁師にしようと英才教育をしたのか、洗脳教育なのか(笑)。船に乗ったり、魚に触れたり、遊びながら育ててくれたなかで、毎日おかずにする魚を選ばせてもらって好きに食べてたんです。最初はデカいのが美味しいと思って、一番デカいのを選んだり、中くらいのを選んだりしているうちに、分かってくるんですよ。どの魚が美味しいかって。その日に揚がった魚のなかで一番美味しいと感じた魚を選んでたことが、いまでいう目利きの訓練になったんですね。市場に出したら1万円の値段がつく魚だって、子どもだから遠慮なく選んでましたね」

これは、漁師の家庭の当たり前ではなかったそうだ。

「漁師の家の友だちは、市場で値段がつかない死んだ魚ばかり食わされてました。それで魚嫌いになったのが多い。でも、じいちゃんは僕が選んだ魚が値段のつくものでも、質の悪い魚に誘導しなかった。ウチは美味しい魚を食べる家だったんですよ」

小学校に上がると、海に潜ったり100円の釣り竿で磯釣りをしたりで、お小遣いを稼ぐことも。そんな環境のなかで、ある日、気づいたことがあった。

「小学校三年生か四年生の時、『じいちゃん、何かしらんけど、これ今日うまいことない?』って。この魚ならこれぐらいの味やのに、っていう想像より美味しかった。漁から帰ってそのまま食べる魚より、沖(漁)が休みだから船の生け簀で活かして1日おいて、次の日に食べる魚の方が美味いってことに」

夜に漁へ出ることも。船上の生け簀は、藤本さんが美味しさの変化に気づいた起点だった

中学になると「いっぱしの漁師と一緒くらいの能力があった」と振り返る藤本さんが、漁師になるのは自然の流れ。高校卒業と同時に漁師になり、22歳で独立をした。

「人の3倍を獲って当たり前。今日5倍獲ってよし!勝ったな、みたいな超生意気でしたね。ただ、それをやってたら、魚がいなくなったんですよ。自分が漁の許可を得ているエリアから。昔は1万匹くらいいた魚が、3000になっている感覚」

全体的に魚の生息数が減少傾向になっていたのも重なり、ほかの漁師も全盛期の三分の一しか獲れなくなっていた。それでも藤本さんは、ほかの漁師の3倍の漁獲はキープしていたが、ある時、大きな気づきがあった。

「10年後、15年後に先はないな、って」

このタイミングでの出会いが、大きな転機となった。

自ら動いて会った人々との交流が魚の価値を変えた

漁獲量が目に見えて減ったことに気づいた藤本さんは、まず売り方を変えた。

「28歳ぐらいの時に、料理人さんに1000円のものを3倍で売ってみようと。これはめちゃくちゃ簡単やったんですよ、相手も喜んでくれるから。あ、これからの商売はコッチやと。それまでは、10万円分の魚を獲りました、市場へ持っていきました、10万円くれます。で、倍を獲っても20万円じゃなくて、12、3万円しかくれないんです」

そして、漁業の構造にも気づく。

「魚の価値じゃなくて、需要と供給で値段がつくのが市場。周りの3倍を獲っても、30万じゃなくて16万とか自分から半額セールをしてしまう。自分が頑張って魚を獲るほどに魚の価値を下げてたんです」

卸先を地元の市場、ほかの市場と数カ所に分けていた時期もあった。労力に見合ってなかったが、利益は出てたという。だが、リーマンショックでポンプ代や運送代が負担になってきた。

「でも、働くのが好きだし、漁を手加減するのは嫌だった。力の限り魚を獲ることなのか、売ることなのか、いろいろとやってた時に料理人に出会ったわけですよ」

世界は、全く異なった。市場からキロいくらで売れたという業務連絡のFAXだけの日々とは一転、料理人が提供した料理の写真を送ってくれる、レシピを教えてもらえる。そして、家でそのレシピを再現するようにもなったのだ。

「料理人との会話もめっちゃ楽しい。紙切れが届くだけの仕事から感想を聞ける仕事に変わって、コッチの方が楽しいわ、って」

この転換期には、もうひとつ気づきがあった。3倍の値段で“ふっかけた”藤本さんが驚くようなことを、料理人が言ったのだ。

「大阪のシェフに届けたら『安い』と言われたんですよね。僕の地元は田舎だから、タイは1キロ1000円。だから、料理人には1キロ3000円で卸した。でも、シェフからしたら明石の市場で買えば7000円~8000円するタイが、3000円で届いたわけですよ。しかも、安いからラッキーが理由じゃない。『魚を安く見すぎてる』と『もっと高くても、僕たちにとっては安くていい魚』と言われました。もっと儲けたらいいよ、とも教えてもらったんですけど、そんなことあるん?田舎者からしたら思うわけですよ」

いまから十数年前のこと。これまでの自分の常識に疑問をもった藤本さんは、明石の市場でタイを購入。キロ単価1万円~1万2000円ほどだった。

「食べ比べると、うちの魚と同じくらい美味しかったし、なんなら僕の方が美味しかった。ってことは、僕の魚も1万円ってことですよね。それで、全国のタイと、ほかの魚も買って食べることにしたんだよね。そうやって流通している値段を調べて、どの地域の誰に勝つ、負けるのか。明石の市場では、その他大勢のタイを買っても勝負にならないから、一番良いのを買う。僕らの世代がみんなFacebookを使ってた時代だから、情報をチェックして、買いに行ったり会いに行ったりして『一番良い魚を食べたいんです』とやってました」

市場でもっとも値がつく魚の行先は、料亭やそのエリアでも高価格帯の飲食店と、たいてい決まっている。それでも、“良い魚”を求めて、北海道から九州まで回った。

「この人と思った人に、勉強をさせてください、と頭を下げてお願いしました。すると、変なやつが来たな、じゃあ送ってやろうとかなるわけですよ。でも、クエの日本一はどこだろう?とやったら、キロ単価が1万円くらいで10キロくらいの魚なのに、五か所一度に連絡が来ちゃった。お金のことは口に出さなかったけど……、その日だけで50万円の魚を買うことになる。だけど、なかなか食べ比べできへんから、超ラッキーしたよね」

そうやって“自分が獲る魚の立ち位置”を、舌で覚えていった。現地で食べる、現地から発送されて日を空けたものも食べる。その箱、梱包、箱詰め、締められ方、氷の当てかたと覚えていった。

「ほかの市場に出すようになって、数年後。確か、18年前で、そのころには京都の市場での最高値を僕がとってたんですけど、なんで高松では1キロ1000円なのに、京都へ行くと1キロ5000円になるのか理由を知りたくて行ったんですよ。そこで、タイの尾から針金を入れてるのを見て、真似してやるようになったのが神経〆の最初でした」

漁師とビジネスセンス、行動力と学ぶ姿勢、そして気づきと出会いにより、“美味しい魚を提供する”と日本のトップシェフから取引のオファーが殺到するまでになった。そして、フランスのレストランガイド『ゴ・エ・ミヨ 2021』日本版で、独自の挑戦をする生産者らに贈られる『テロワール賞』を受賞。だからこそ、思うところがある。後編では、漁の現場から魚食文化の未来について語ってもらう。

プロフィール

藤本 純一

漁師
独自の挑戦を続け、『ゴ・エ・ミヨ 2021』日本版で『テロワール賞』を受賞

浜で100点の魚を、100点のまま料理人へ〈前編〉
愛媛県生まれ。漁師の家に育ち、その4代目として高校卒業と同時に漁師へ。22歳で独立し、現在は各地のトップシェフと取引するスター漁師としても知られる。2010年、鮮魚卸売会社『蛭子丸』を設立。2021年、フランスのレストランガイド『ゴ・エ・ミヨ 2021』日本版で『テロワール賞』を受賞した。今治市伯方島でシェフとコラボレーションした間借りレストラン『虹吉』を手がけるなど、既存の漁師の概念を覆す活躍を続ける